INICIAR SESIÓN
————リヒテンシュタイン帝国。
帝国始まって以来の賢帝であられると評判の現皇帝陛下の元、今年も社交期間《シーズン》が始まった。
社交期間に入った貴族たちの夜は長い。 普段は領地にいる者たちも帝都にある帝都邸《タウンハウス》へと移動し、男たちは紳士倶楽部や会談、女たちもお茶会や刺繍の集まりなど皆一様に社交に精を出す。それは家門の為だったり、自らの見栄や他者への牽制の為だったりと、この数ヵ月の間に人間関係がガラリと変わることも珍しくないのだ。
そして今夜、俺————セドリック・フォン・ドラッケンベルクも、とある伯爵邸で開かれた夜会に駆り出された。
綺羅びやかなホール内には、自らを飾り立てた紳士淑女が至るところで輪を作っている。俺はシャンパンを一口呷り、誰にも気付かれないようにそっと息を吐く。
————ドラッケンベルク侯爵家の嫡男。
父は帝国————ひいては皇帝陛下に忠誠を捧げる騎士たちを率いる騎士団総長だ。
俺自身も騎士を目指して研鑽を積んでいるが、十七歳となった今も婚約者の席は空席のまま。
そんな俺は未婚の貴族令嬢たちにとっては、格好の獲物らしい。だからこそ、こういった夜会に顔を出す度に次期侯爵夫人の座を狙う令嬢や、その親たちが群がってくるのがいつものパターンとなっている。
父親譲りのシルバーブロンドの髪とダークグレーの瞳、高位貴族らしい顔立ちのせいで、幼い頃から令嬢たちに付き纏われていた。成長するにつれて体つきも騎士らしくなってからは、未亡人や既婚の夫人までこっそりとお誘いを掛けて来ることが増えた。
どんなに冷たくあしらっても、まるで地面に落としたキャンディーに群がる蟻のごとく懲りずに寄って来る。正直……いや、かなりうんざりしている。
最近ではその氷のように冷徹な対応ぶりと、その髪色から連想したのか『銀氷の騎士』などと呼ばれているらしい。(……何だ、その恥ずかしい二つ名は)
扇子の影で頬を染めながら囁く令嬢たちを視界の端に捉えた瞬間、急激な疲労感が押し寄せてきた。
気分転換にと、フラッと会場を抜け出して庭園へ向かう。夜風に頬を撫でられ、喧騒から離れただけで少しだけ息がしやすくなった気がした。
特に当てもなくフラフラと歩いていると、酔い覚ましの為か逢引の為か……ポツポツと人の気配がする。それを避けるように更に歩みを進めると、明らかにプライベート区域に踏み込んでしまったようだった。
他人の屋敷で無許可の場へ侵入するのはマナー違反だ。 戻ろうと踵を返そうとしかけた時————視界の端を何かが横切った気がした。すぐにそちらへ視線を向けるが、特段異変はない……。
そう思いながらも、足が勝手に動いていた。木々の影をくぐり抜けた先に、古びた別邸が一つひっそりと姿を現した。
蔦が絡みつく外壁、朽ちかけた窓枠————明かりの一つもなく、まるで息を潜めているようだった。中に人の気配もなく、長い間放置されているのは外観を見ただけで分かった。
(……気のせい、だったか……)
今度こそ戻ろうとした瞬間、ふと違和感を覚えて素早く振り返った。
別邸を仰ぎ見ると————二階の窓が、ほんの少し開いているのが見える。足音を立てないように忍び寄ると、ポルティコの柱の塗装は剥げ、床もところどころ汚れていた。
長い間、人の手が入っていないのは明らかだ。(……普段使われている形跡がないのに、窓が開いているのはおかしい……)
いくら古く放置されていたとしても、貴族の別邸ならば厳重に管理されているはずだ。
玄関扉に目をやれば、本来施錠されているはずの南京錠《ダンジョンロック》の掛け金が外れており、鎖が頼りなくぶら下がっていた。良くないこととは思いつつ、慎重にハンドルを握ってゆっくりと扉を押し開き、キィーーと古びた音が夜の闇に響く。
一歩足を踏み入れると、中はかなり埃っぽく、カビの臭いが鼻をついた。 目的の部屋を目指し、時折ギシギシと軋む階段を一段一段慎重に登る。足を踏み出す度に響く音が妙に大きく聞こえ、思わず足を止めそうになった。
それでも何とか目当ての部屋の前まで辿り着くと、扉が僅かに開いていた。息を潜めて中の様子を窺うと、微かな音————確かに、誰かいる。
確かめるより先に体が動いていた。扉を押し開け、真っ暗闇の室内へ踏み込むと、窓の前に誰かが立っている気配を肌で感じた。
「……何者だ?」
伯爵家の人間であれば、逆に「お前こそ誰だ!?」と問い返される立場だが、恐らく目の前の人物はこの屋敷の者ではないという確信に近いものがあった。
いきなり見知らぬ人間が室内に飛び込んで来たにも拘わらず、驚きも焦りも————感情の揺らぎが何一つ伝わってこない。『只者ではない」——そう、直感した。
雲の切れ間から月がゆっくりと姿を現し、月光の中にこちらに背を向けた女が浮かび上がった。
黒髪をしっかりとまとめ上げ、上下共に黒のパンツとノースリーブ、首元には黒いマフラーのような物が巻かれている。惜しげなく晒された細長い腕は白く、俺が思いっきり握れば折れてしまいそうだ。
月に照らされたことで諦めたのか、『彼女』はゆっくりと首だけを捻り————こちらに視線を向けた。 その瞬間、思わず息を呑んだ。目から下は黒い布で覆われており、見えるのはその瞳だけだった。
温度を感じさせない深いロイヤルブルーの瞳が俺を真っ直ぐ射抜いたと思った瞬間、『彼女』は窓枠に足を掛けて窓の外へ消えた。
気付いた時には、空虚に手を伸ばしていた。すぐに意識を引き戻して窓へ駆け寄り、身を乗り出して下を確認する。
————だがそこには人影一つなかった。
これが『彼女』との、最初の出会いだった。
まさか、この出来事によって自分のすべてが変わるなんて ————この時の俺は、知る由もなかった。アメリア・フォン・ブライトン伯爵令嬢────それが、今の私の名前。私のお父様はブライトン伯爵家の婿で、ある日お忍びで来ていた下町の酒場で平民のお母様と出会った。お母様に一目惚れしたお父様は『奥様』の目を盗んで度々会いに来て、そして二人は愛し合って私が生まれたの。お母様は『愛人』だったけれど、三年ほど前に正妻でブライトン女伯爵だった『奥様』が病で亡くなったことで私たちの運命が変わったわ。この国では女でも爵位を継承することが出来るけれど、家門の血筋の者以外が継ぐことは『お家乗っ取り』に当たる。だから婿入りしたお父様がブライトン伯爵位を継承することは許されない……。お父様と『奥様』との間には子どもがいなくて、数年前に分家筋から私より二つ年上のお義兄様を次期当主として養子に迎えていたの。『奥様』の血筋じゃないから女伯爵にはなれなくても、私の容姿なら『高位貴族へ嫁げるかもしれない!』と考えたお父様はお母様と再婚した。当然分家の親類たちは反対したみたいだけれど、それを押し切って私たちは『後妻』と『伯爵令嬢』になれた!これまでもお父様の援助で普通の平民よりは良い生活をしていたし、それなりに教育も受けていたわ。けれども本格的に貴族として生きていくには、まだまだ足りないと言われてしまった。リヒテンシュタイン帝国の貴族子女は十五歳から貴族学院へ入学しないといけない、と義務付けられてるそう。その為に貴族としての最低限の礼儀作法や教養を身に付けさせられ、特例で一年遅く『途中入学』することが出来たわ。平民の時には必要のなかった礼儀作法や、教養の勉強は厳しくて大変だったけれど、今まで身に纏うことも出来なかったドレスや宝飾類、そして華やかな貴族としての生活に胸が高鳴った。無事に入学すると二年生のAクラスだった。Aクラスは基本的には、それなりに学力が高くて伯爵家以上の人が多い。せっかく平民から貴族となったのだから、どうせなら素敵な人たちに囲まれたい……そんな思いで真面目に勉強を続けたわ。その甲斐あって、三年生になったときには最高ランクのSクラスに入ることが出来たの!Sクラスには今まで遠くから眺めるだけだった高位貴族の人たちがたくさんいて、最初はとても緊張したわ。成績は悪くなかった反面、礼儀作法は付け焼き刃で下位貴族と変わらないような状態だったけれど、気軽に話
──────貴族学院。リヒテンシュタイン帝国の皇族・貴族子女は十五歳から十八歳の四年間、必ず帝都にある貴族学院に通わなければならない。それは教養の他、交友関係を広げることや婚約者探しという理由もあるが、最も重要なのは『魔法』をきちんと身に付けさせる為だ。『学びの為の貴賤は問わず』という学院理念により、割合は少ないが一部魔力がある者や優秀な平民も特待生として通っている。現在三年生の俺も例外なく通っており、学院では幼い頃から側近候補として交流がある第一皇子のレイルが会長を務める生徒会の、二人いる副会長の一人として活動している。生徒会長であるレイル・オブ・リヒテンシュタイン第一皇子。同じく副会長であるカスティエール公爵家嫡男のダリウス・フォン・カスティエール。そして、会計のモンタギュー商会長嫡男のアーサン・モンタギュー。書記は令嬢の為、学院内では大体はこの三人と行動することが多い。「きゃっ!」昼食を食べる為に、いつもの四人で食堂《ダイニング・ホール》へ移動している時だった。その声の方へ視線を向けると、廊下のど真ん中で一人の令嬢が座り込んでいるのが見えた。そして……その令嬢の前に立っているのは生徒会書記であるマルガレーテ・フォン・ローゼンベルク公爵令嬢────共に副会長を務めているダリウスの婚約者でもあり、俺とレイルも幼い頃から交流がある。レイルと顔を見合わせ、いざという時の仲裁に入れるように彼女たちの傍まで移動した。栗色の少しウェーブがかった長い髪────ブライトン伯爵令嬢であるアメリア嬢だと、後ろ姿だけですぐに分かった。(はぁ、またか……)ブライトン伯爵令嬢とマルガレーテ嬢はここ数ヵ月の間、このようなトラブルが絶えない。「す、すみません……」「アメリア・フォン・ブライトン伯爵令嬢……一体、何に対して謝罪されていらっしゃるのかしら?」マルガレーテ嬢はそう告げると、目を細め扇子を開き口元を隠した。その様子にブライトン伯爵令嬢はビクッと肩を震わせ、体を小さく縮こまらせてしまった。ピンクブラウンの瞳には大粒の涙が浮かんでいる。この庇護欲を唆る雰囲気に、周囲には眉尻を下げて同情する者も少なくなさそうだ。マルガレーテ嬢の綺麗に巻かれた鮮やかな赤い色の髪や、釣り目気味な金色の瞳がキツく見えやすいうえ、令嬢にしては少し身長も高い。更に彼
————リヒテンシュタイン帝国。帝国始まって以来の賢帝であられると評判の現皇帝陛下の元、今年も社交期間《シーズン》が始まった。 社交期間に入った貴族たちの夜は長い。 普段は領地にいる者たちも帝都にある帝都邸《タウンハウス》へと移動し、男たちは紳士倶楽部や会談、女たちもお茶会や刺繍の集まりなど皆一様に社交に精を出す。それは家門の為だったり、自らの見栄や他者への牽制の為だったりと、この数ヵ月の間に人間関係がガラリと変わることも珍しくないのだ。そして今夜、俺————セドリック・フォン・ドラッケンベルクも、とある伯爵邸で開かれた夜会に駆り出された。 綺羅びやかなホール内には、自らを飾り立てた紳士淑女が至るところで輪を作っている。俺はシャンパンを一口呷り、誰にも気付かれないようにそっと息を吐く。————ドラッケンベルク侯爵家の嫡男。父は帝国————ひいては皇帝陛下に忠誠を捧げる騎士たちを率いる騎士団総長だ。俺自身も騎士を目指して研鑽を積んでいるが、十七歳となった今も婚約者の席は空席のまま。 そんな俺は未婚の貴族令嬢たちにとっては、格好の獲物らしい。だからこそ、こういった夜会に顔を出す度に次期侯爵夫人の座を狙う令嬢や、その親たちが群がってくるのがいつものパターンとなっている。 父親譲りのシルバーブロンドの髪とダークグレーの瞳、高位貴族らしい顔立ちのせいで、幼い頃から令嬢たちに付き纏われていた。成長するにつれて体つきも騎士らしくなってからは、未亡人や既婚の夫人までこっそりとお誘いを掛けて来ることが増えた。 どんなに冷たくあしらっても、まるで地面に落としたキャンディーに群がる蟻のごとく懲りずに寄って来る。正直……いや、かなりうんざりしている。 最近ではその氷のように冷徹な対応ぶりと、その髪色から連想したのか『銀氷の騎士』などと呼ばれているらしい。(……何だ、その恥ずかしい二つ名は)扇子の影で頬を染めながら囁く令嬢たちを視界の端に捉えた瞬間、急激な疲労感が押し寄せてきた。 気分転換にと、フラッと会場を抜け出して庭園へ向かう。夜風に頬を撫でられ、喧騒から離れただけで少しだけ息がしやすくなった気がした。 特に当てもなくフラフラと歩いていると、酔い覚ましの為か逢引の為か……ポツポツと人の気配がする。それを避けるように更に歩みを進めると、明らか